「ADHD」「ASD」「HSP」「愛着障害」「アダルトチルドレン」などなど、いろいろあるけど、「ADHDとASDの違い」「ASDとHSPの違い」とか、わかりやすく相対的にしてみました~ってのを、「ASDとHSPは別物だ」みたいに絶対的なものと勘違いしちゃう現象めんどくない?
具体的な現象をタグ付けして抽象的な概念としてフォルダ分けすると便利じゃん?んでもその結果をどう判断したかの基準に縛られて「違う」と決めつけてしまうとややこしくなっちゃうじゃんねーー。
河童いるじゃん妖怪の。全国に言い伝えがあって、姿かたちや呼び方が各地で違うんだけどさ。メドツは顔が猿で、知人や少女などに変身したりする。ひょうすべはちっさいおっさんで体が猿っぽい。共通点のタグは川岸の妖怪。フォルダは河童。カテゴリーは妖怪。
カテゴリーを生きづらさだとして、タグは「過敏」だとしてみる。検索するとHSPとASDのフォルダが引っかかる。両方に当てはまるところもあり、当てはまらないところもある。というかグレーゾーンほどきっぱり分けられないことも多い。それに対して「違う」って、不毛な判定だよなー。
いまだに発達障害、知的障害、人格障害が混同されてたりする。それぞれ別物で、その上で併発もあるのだと、理解が広まるといいなあ。
「発達障害だから」と人をフォルダでまとめるように考える人と、「発達障害の特性」と人にタグを付けて考える人がいるように思っていて。見えてる景色がかなり違うみたい。私はタグ派ですが、フォルダ派の方に何かを伝えるのはとても難しいです。
フォルダ派は「努力しても治らない」と思いがちで、タグ付け派は「他のタグでカバー」してるように見えていて、そこに溝を感じます。
思い描くビジョンが「治す、克服する、助けてもらう」のうちは対象が「発達障害」になってしまうので、カテゴライズされた考え方になり盲目的になってしまうというのはあるかもしれないですね。共存するものと捉え、対象が「自分の人生」になったときに、タグになるものだと考えています。
世の中の「主語でかい現象」は、自分の身に起こっている「タグ」を「カテゴリ」や「フォルダ」で語ってしまうところにあるんだと思う。
「(性別)って結局浮気する生き物だろ」「(性別)は(性別)より劣っている」こういう言い方をする人は「それに該当しない人は含めない」で話してたりする。でも大きくカテゴライズしてるのでそのカテゴリの該当しない人は良い気分しないだろうね。