文学を個人で楽しむのは自由だけど、文学を教育されるということは、おきもちを育てる教育をされるということで。文字に書かれた以上のことを勝手に察するのが良し。正解ありきでおきもちを当てに行くのが良し。こんなふうにおきもちだけが持て囃されるのがそもそもおかしい。フェアじゃない。
つまり正解の判断基準が、事実にない部分と感情から構成されている。多くの人が、さも真実であるかのように感情でジャッジする傾向にあるけど、この偏った教育の賜物だと思うんだよ。決して「おきもちの全てが悪い」ということではないよ。ただ、主義主張と事実を履き違えてる人があまりにも多すぎる。
恐らく論理ジャッジがとても苦手なんだと思う。同じように、世の中には感情ジャッジが不得手な人もたくさんいて、こういう人は事実認知、分析、解決案の提示が得意。感想文は書けなくても小論文は書ける。だから「感情」と同じくらい「論理」の枠を設けることで、ようやくフェアでしょ。
これが一部の方々がディスってる「論理国語」なんだけど、別に国語から文学が消えるわけじゃないしね。「文学」もあるし「論理」も選べるようになるだけで。だから文学勢はこれまで通り文字の芸術から豊かな感性を学べば良い。お互いにそれぞれの得意を極めて、支えあって行くことができたらいいね。
国語教育で言えば文字問題。英語圏と違って、日本では書写も同時に始まる。
小学生の頃に字の丁寧さを求められて勉強嫌いになった人は少なくないだろうなあ、と。前頭葉が未発達な年齢の子の、好きでやってるわけでもないタスクをなんとかクリアした先の評価が「もっと丁寧に!」なんて、やる気なくなっちゃうよね。
「しなければいけない」ものを「したい」に変換できる脳になる前に、6歳から学習と書写の同時進行。自身が何かを学ぶためノートにペンを走らせているとき、人にお手紙を出すような文字を書ける大人がどれだけいるのか?
粗末な字のデメリット「相手に失礼」と「読めない」と…あと何があるかな。
「自分に宛てられた文章が、汚い字だと嫌な気持ちになる」←世の中にはそういう人もいるから、誰かに文字をプレゼントするときは丁寧にね、はわかる。
「先生に対して雑な文字は失礼に当たる」←児童は先生に文字をプレセントすることより、自身が学ぶことの方が優先されるべきなのでは。同時進行が当たり前という「画一的な学び方と要求水準の強制により弾き出された子どもたち」もいる事を、教育者養育者が知っておかなければいけないのでは。
「読めない」←これは周りの人も本人も困るので、採点の際には「この文字は読めないから読める字で書いてね」と伝えれば良いだけで。「特定の文字を読める字で」と「全体をもっと丁寧に」では、今後の学習に対する意欲が違うと思うんだよなあ。
漢字のとめはね問題でネット検索してるときに「とめはねはこだわらなくても良い、しかし丁寧に書かなくても良いというわけではない」というのをいくつか目にして「んんん???」となったので、吐き出してみた。
東大生のノートの字が汚いってのは、入出力の作業から装飾を削ぎ落とすことで効率化してるんだね。一日の判断量に限度があることを知ってる人は着る服やランチは選ばなくてもいいようにしてる。ジョブズのタートルネック然り。装飾より効率。